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El que rie ultimo rie mejor.

最後に笑う者が勝者

真面目な考察に見せかけた戯言

私の中で芸人というのは異界への扉、または異界そのものである彼ら(ボケ/ネタ担当)を翻訳/濾過/増幅させながら現への橋渡しをする案内人(ツッコミ)が、コンビ(またはトリオ)をくんでいる人たちという勝手な思い込みがあります。

ボケは自分が異界(または異物であると言い換えてもよい)だと認識していてもしていなくても、滲み出る不安定感や不協和音を内包したまま現に在るから、どう正しても歪でしかいられません。その歪こそが魅力なのですが。

そしてツッコミは案内人であるのと同時に異界の鍵として機能しているのが健全な姿だと思っています。鍵という存在なしには扉を封じ込めることも解き放つことも不可能だからです。

コンビ(またはトリオ)のボケがピンでバラエティなどに出ている時の不足感(または身の置き所のなさ)は、優秀な案内人がいないことへのそれに通じているのではないでしょうか。

だからピン芸人の場合は異界への憧れが昂じて取り込まれている、もしくは異界と現を行ったり来たりできる人たちだと思うのです。

 

独断と偏見としか言いようがありませんが、異界を内包していない芸人を私は芸人とは思っていないのです。

そもそも異界=シュールというわけではなく、どちらかというと根源的な恐怖感(夜や死や理解できないものに対する恐怖など)へのニアイコールであって、内包していないものがどんなに面白かったとしてもそれは通り過ぎて行くだけの存在です。

余談ですが、人前で5分でも10分でも視線を集めていて平然としていられるというのは一種の精神病であると、中川さんちの剛にいさんが以前トークしていた記憶がございます。

ということは、常識人(であろうとする)ツッコミもまた異界の住人である場合もあるのではないでしょうか。



ちなみにネタの構造として、枠組みをどれだけ意識しているかは大きな意味を持ちます。

チュートリアルM-1優勝以前の万年2位時代のインタビューで、最優秀をとるネタはどこかに歪みがあり、それが面白みとなる。歪みが出せないのならどれだけ綺麗な円をかけるか挑戦したいといった趣旨の言葉を述べていました。

麒麟といえば、初めてのM-1で披露した漫才での枠組み自体の再構築に始まり、麒麟といえば実況(アテレコ)漫才というイメージを身につけることに成功しました。(本のヒット以来また模索期に入っているようでしたが、かわしまんざいたむらいぶで見せた5本の漫才や、M-1という枷が取れてから徐々に復活の兆しを見せていると思われます)

 

そんな中私が面白いなぁと気になって仕方がないのが東京吉本若手の平成ノブシコブシチーモンチョーチュウです。

ノブコブは既存の枠という枠をぶち壊そうと試みます。(最終的に収束させるのはまだまだ苦手なようですが)

つかみの段階で提示したテーマを無視するのはパターンとしてあれど、枠自体を壊していながら漫才という形式から脱線していないタイプは寡聞にしてあまり聞いたことがありません。(あえていうならオードリーのずれ漫才が近いのでしょうが、オードリーの場合は枠自体は壊していないと思われます)

チーモンチョーチュウは枠から外れたところで遊んでいるボケ(白井)をツッコミ(菊地)が枠の中へと引きとめているはずが、気づいたときには枠の線上で一緒になって遊んでしまう。それも枠があることが当たり前になっている私たち(観客)を置き去りにして。ボケの言語センスというか感覚だけで言うならば、一番イノセンスなコンビだと思っています。


だからなんだと言われたらそれまでですが、ここ数日頭から離れなかったので文章化してみました。考察終わり。